ゲーテの『ファウスト』は『書きたがる脳』のしわざだと思うし、ついでに「ゲゲゲ」もどうですか

 
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岩波文庫の初版は、昭和33年。

ゲーテ(1749-1832)の『ファウスト』は、彼のライフワークと言っていいでしょう。

ゲーテは、この大作を24歳で書き始め、82歳で書き終え、83歳で亡くなりました。
天才をもってしても、この詩劇の完成にほとんど全生涯を要したのです。

馬琴先生の『南総里見八犬伝』(28年の執筆期間)や、
マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』も長篇ですが、
ゲーテの『ファウスト』における24歳から82歳というのはあまりにも長い執筆期間ですね。
(その間に他のものも書いたでしょうが…。)

それにしても。
この長い作品の1ページずつが、ちぎって食べてしまいたいくらいの美しさです。

悪魔や博士や道化師や魔女、皇帝や天使など、多くの登場人物が語り、歌い、踊ります。
中には、「空想的花輪」や「空想的花束」という何やら叶姉妹的なものさえ出てきます。

これはゲーテの脳内にある舞台で繰り広げられた「やりとり」を書き取ったものなのでしょう。
彼はこれを書かなかったら、頭がおかしくなったのでは?
紙に落とすことで、かろうじて生き永らえたのかも、と想像するのです。
(だから、書き終えて亡くなったとか…。)

「いやはや、芸術は長く、われらの生命は短いのでございます。」

ほんま…。

『書きたがる脳』:その傾向の理由という記事も、ぜひご覧ください。)

***

『ファウスト』は長くて大変という方、こちらはどうですか?

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「支配したり服従したりしないで、それでいて何物かであり得る人だけが、
ほんとに幸福であり、偉大なのだ。」

「耳ある者は聞くべし。金ある者は使うべし。」

あはは。

ところで。水木しげるさんもゲーテがお好きだったようですね。
紹介しておきます。

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『地下鉄のザジ』と『ぼんぼん すふぃあ:カトリーヌ・ボンボンの内なる世界』

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原作は、1959年のレーモン・クノーの同タイトルの小説。(映画化は1960年。)

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ルイ・マル監督(1932 – 1995)ならではのセンスと演出の効いたコメディ。地下鉄に乗るのを楽しみに地方から出てきた10歳の少女ザジは、2日間パリに住む親戚のガブリエルおじさんに預けられる。ところが、お目当ての地下鉄に乗れないと知らされ、ザジはおじさんの元を抜け出し、パリの街へと繰り出す。

わたしの好きな映画に『地下鉄のザジ』があります。
いつ観ても主人公ザジの神出鬼没ぶりには心が躍ります。
映画の中のザジはまだ幼い少女ですが、
彼女の大人になった姿は、想像するだけで楽しくなります。
そう、ザジはわたしでもあるのです。

そう「あとがき」に書いた、わたしの本はこちらです。

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ザジを演じた「カトリーヌ・ドモンジョ」と拙著の「カトリーヌ・ボンボン」が同じ「カトリーヌ」という名前であることに、今、気がつきました!

カトリーヌ (Catherine, Catarine)は、フランス語圏の女性名。ギリシア語で「純粋」という意味を持つ「カタロス」(καθαρός, katharos)という言葉に由来する、とのこと。

ウィキペディアのカトリーヌ・ドモンジョの欄には、アニメの『ヤッターマン』の「ドロンジョ」のモデルとなっている、とあるのですが、それはどうかな?(「ドモンジョ」から「ドロンジョ」?)
ただし、「ドロンジョ=身長173cm」とあり、またしても長身!

「ザジ」と「ドロンジョ」を並べてみると、「何がどうなって、そういう仕上がりに?」という記事にも書いた、「奔放な小さい子」と「やり手の長身美女」のミックスに、わたしの根源的な志向があるのだと思いますね。これはもう隠しようがありません。

ちなみに「カトリーヌ・ボンボン」の身長は168cmで、まだこれから伸びるかも、という設定です。
ぜひ、こちらもお手に取ってご覧ください。

出版の経緯などは、こちらに書きました。
ぼんぼん すふぃあ:カトリーヌ・ボンボンの内なる世界
そのチラ見せも。

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Enjoy your life!

 

リルケつながり:『若き詩人への手紙』の言葉を彫ったレディー・ガガとサンローランの成功をそばで見た人の目に映ったもの

レディー・ガガの左上腕内側には、リルケの『若い詩人への手紙』の一節が、
ドイツ語でタトゥーとして入っているそうです。

2行目に小さな文字で、”12-18-1974″とあるのは、19歳で亡くなったという彼女のおばさんの命日。
(また、ニューヨークにある彼女の父親のレストランの名前でもあるとか?)

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レディー・ガガの左上腕内側のタトゥーのフレーズは、この本では15ページ目にあります。

もしもあなたが書くことを止められたら、死ななければならないかどうか、
自分自身に告白して下さい。
何よりもまず、あなたの夜の最も静かな時刻に、
自分自身に尋ねてごらんなさい、私は書かなければならないかと。
深い答えを求めて自己の内へ内へと掘り下げてごらんなさい。

このフレーズの後には「答え次第では覚悟が必要ですよ」ということが、
かなりの言葉を尽くして書かれています。

ライナー・マリア・リルケ(1875年 – 1926年)の『若き詩人への手紙』は、一人の青年(詩人志望のフランツ・カプス)が直面した生死、孤独、恋愛などの精神的な苦痛に対して、リルケが深い共感に満ちた助言を書き送ったもの。

『若き女性への手紙』は、子供との二人暮しを支えるために働きながらリルケの詩を読んでいたリーザ・ハイゼが長い苛酷な生活に臆することなく大地を踏みしめて立つ日まで書き送った手紙の数々。

リルケの誠実な返答や芸術についての考察は、わたしたちにも励ましと力を与えてくれます。
(おそらく、レディー・ガガもそう感じたのではないでしょうか。)

リルケと言えば、もう1冊思い出す本があります。

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イヴ・サンローラン(1936年 – 2008年)のパートナーだった、ピエール・ベルジェ(1930年 – 2017年)の回顧録『イヴ・サンローランへの手紙』です。

この本の中に見つけたリルケの言葉は…

「栄光は誤解の総和だ。」

リルケの『ロダン論』の一節らしいのですが、イヴ・サンローランの成功とその周辺にあったものを、長年にわたり目撃し続けた人には、「まさに!」と感じられたのでしょう。

栄光の表と裏。光と影。理解と誤解の狭間。実と虚無。すべてをひっくるめて、そう、ひっくるめて何なのでしょう…。「宇宙は空っぽであり、何でもある」、でしょうか。

 

『アレックスと私』「ココというゴリラ」『ある小さなスズメの記録』、そして『動物に魂はあるのか』

わたしは、コミュニケーションを「やりとり」と訳しています。

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これは、学習するオウムとの「やりとり」の記録です。

原題は『Alex & Me: How a Scientist and a Parrot Discovered a Hidden World of Animal Intelligence–and Formed a Deep Bond in the Process』。
直訳すると『アレックスと私:科学者とオウムが動物に秘められた知能の世界を明らかにし、
その過程で強い絆で結ばれた物語』です。

「アレックス」と名付けられたオウムは、色や形、
100以上の英単語などを覚え、人との「やりとり」に使うことができました。
(彼の最期の言葉は “You be good. I love you.”だったそうです。)

この本には、「手話ができるゴリラのココ」の話も出てきます。

彼女が覚えた手話(単語)は2000語を超え、嘘やジョークを言うことさえあったとか。
(こちらはココのサイトです。http://www.koko.org/

ココが研究者と「死」について会話した内容を記します。

研究者:ゴリラは死ぬとき、どう感じるの?
ココ:眠る。
研究者:ゴリラは死ぬと、どこに行くの?
ココ:苦痛のない 穴に さようなら。
研究者:ゴリラはいつ死ぬの?
ココ:年をとり 病気で。

「苦痛のない 穴に さようなら。」の原文は、“Comfortable hole bye.” だそうです。
「眠る」そして「苦痛のない 穴に さようなら。」、いいですね。

ゴリラだけでなくイルカや象など、他にも人間と「やりとり」できる哺乳類はいますね。
(下手な人間同士よりも通じ合っているのではないかと思うケースすらあります。)

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これは、「スズメ」と人間の間に起きた、奇跡的な「やりとり」に関する本です。
サブタイトルにあるように、「人を慰め、愛し、叱った、誇り高きスズメ」…。

しかも驚くことに、12年と7週と4日生きたスズメです。

第二次世界大戦中のロンドン郊外で、足と翼に障害を持つ、生まれたばかりのスズメが、
キップス夫人に拾われる場面からストーリーは始まります。

「クラレンス」と名付けられ、夫人の愛情に包まれて育ったスズメは、
すくすくと育ち、爆撃機の襲来に怯える人々の希望の灯火となっていくのです。

キップス夫人がこのスズメと共に生き、最期を看取るまでの12年間を綴ったこの本は、
イギリスで1953年に出版されたのを皮切りに、発刊後わずか1年半ほどの間に10版を重ねたそう。

さらには、他国でも続々と翻訳出版され、キップス夫人のもとには、
世界中から毎日多くの手紙が送られてきたというのです。

本には、このスズメの不思議なまでの芸や歌を含む、驚くべき能力が記されています。
もう、なんということなのでしょうか…。スズメですよ!

思い出すのは、こちらです。
サブタイトルには「生命を見つめる哲学」とあります。
帯には「哲学者たちの格闘と人間性への問い」です。

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動物に魂はあるのか、それとも…。
古代から人間は動物をどう捉えてきたのか、近代に至る動物論の系譜を辿り、
21世紀の倫理的な課題を照らし出すスリリングな思想史。

まぁ難解です。
しかし、それを経ないことには、終章の最後の1ページ半にはたどり着きようがないのです。

そして、その1ページ半にだけ、著者の言いたいことが平たく書かれています。
ひっくり返るくらいに平たく。

あとがきの終わりには、
「若者たちにとってのよりよい未来を心から祈念しつつ」とあります。

著者の祈りに、わたしも沿いたいと思います。

何がどうなって、そういう仕上がりに?

子どもの頃の憧れは「峰不二子」でした。
漠然と、大人になったら、こんな感じになれるのだろうと思っていました。
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ところが、そうはなりませんでした。現実は残酷です。

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『To-y(トーイ)』に出合った時には、二人の登場人物に魅かれました。
「加藤か志子(かとう かしこ)」さんと「山田二矢(ニヤ)」ちゃんです。
(調べたら、「か志子さん」って身長172㎝もあったんですね。)

今は、厚かましくも「ニヤちゃん」混じりの「か志子さん」にはなれたかも、
と思っています。(ほんま厚かましいな…。)

これ、別のキャラクターで言うと、
「アクビちゃん」混じりの「妖怪人間ベラ」ですね。
(調べたら、ベラは身長170㎝。←また身長かい!)

つまり、「奔放な小さい子」と「やり手の長身美女」のミックスです。

(昔のアニメなので、ご存じない方のために動画を置いておきます。)

それから、さらに何十年も経ち、今は、「猫村さん」も入ってきたなぁと感じています。
こちらは「猫」と「人間」のミックスですね。

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コミックスやアニメのキャラクターに自分に似た一滴を発見して、
何かを投影するっていうこと、少なからずあると思います。

それが自分のアイデンティティの一部を補強するという効果も、
まぁあるでしょうね…。

はい、確かにあります。

「奔放な小さい子」と「やり手の長身美女」、そして「猫人間」。
わたしじゃないですか!
(実は他にもあります…。)

皆さんはどうですか?
何がどうなって、そういう仕上がりになったのでしょうか?
そこにコミックスやアニメのキャラクターは影響しませんでしたか?

ジム・キャロルの日記と『夢うつつ―ドラッグ・ポエトリー』に見る「花」

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著者のジム・キャロルは、1950年8月、ニューヨーク生まれ。
作家、詩人、パンク・ミュージシャンとして生き、
2009年9月11日、心臓発作によりマンハッタンの自宅で亡くなった。享年59。

17歳で初めての詩集『Organic Train』を発表。
その後、ヘロイン中毒だった13歳の頃の生活など、
10代の日々をつづった『マンハッタン少年日記(The Basketball Diaries)』を1978年に出版。
同作は1995年にレオナルド・ディカプリオ主演で映画化。

「木々の枝が光をこわし
 地面に優雅な光と影の模様を作っている
 その模様の中で子供たちがビー玉あそびをしている
 純粋になりたい」

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これは別の本ですが、表紙に使われた本人の写真を見ると、
ディカプリオに雰囲気が似ているような気も…。

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***

こちらは日本で1989年に発行された詩集です。

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夜明けのタイムズ・スクエア。
摩天楼の影。
馬のように後ろ足で立つ月。
天使たちの吐息。
シーツに滴る血。
太陽は真っ二つに裂ける。

「若書き」という言葉もありますが、
世阿弥の言う「時分の花」とも言えるかなぁと思いますね。

「まことの花」への道、遠い目になります…。

 

『夜想曲集:音楽と夕暮れをめぐる五つの物語』:カズオ・イシグロの「開かれなかった扉に関する苦味」

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カズオ・イシグロによる2009年発表の短編集(連作5篇)。
(『わたしを離さないで』と『忘れられた巨人』の間に書かれたものです。)

人生の黄昏を、愛の終わりを、若き日の野心を、才能の神秘を、
叶えられなかった夢を描く、著者初の短篇集。

音楽と世界各地の景色が絡みます。
ベネチア、ロンドン、イギリスのモールバンヒルズ、ハリウッド、アドリア海岸のイタリア都市。
登場人物もいろいろ。時代もほぼ同じで、
著者いわく「ベルリンの壁の崩壊(1989年)から、9.11(2001年)まで」を想定しているそう。

「老歌手(Crooner)」
「降っても晴れても(Come Rain or Come Shine)」
「モールバンヒルズ(Malvern Hills)」
「夜想曲(Nocturne)」
「チェリスト(Cellists)」

ヴェネツィアのサンマルコ広場を舞台に、流しのギタリストと、
アメリカのベテラン大物シンガーの奇妙な邂逅を描いた「老歌手」。

しがない英会話教師が大学時代の同級生夫婦のもとを訪問するも、
失態を犯してしまう「降っても晴れても」。

姉夫婦の営む宿泊施設に身を寄せたミュージシャン志望の青年が、
ある観光客の夫婦と出会う「モールバンヒルズ」。

芽の出ない天才中年サックス奏者が、図らずも一流ホテルの秘密階でセレブリティと
共に過ごした数夜の顛末をユーモラスに回想する「夜想曲」。

あるチェリストと彼を指導する女性教師の不思議な関係をつづった「チェリスト」。

(わたしは一つ目の「老歌手」が好きかな。)

訳者あとがきによると、著者は全体を五楽章からなる一曲、
もしくは五つの歌を収めた一つのアルバムにたとえ、
「ぜひ五篇を一つのものとして味わってほしい」と言ったそうです。

わたしはこの五篇を、一日にひとつずつ、五日かけて読みました。
一度に読むのはもったいないような気もして、一篇ずつ余韻も含めて味わい、
「とても長い、いい食事」のようになりました。

彼の本を読んでいる時と、その後しばらくは、
時間の感覚も少し「イシグロ風」になる気がします。
(その「イシグロ風」が説明できなくて、なんとも頼りないことなのですが…。)

この本にまつわる時空には、かつてミュージシャンを目指した彼の、
「開かれなかった扉に関する苦味」も、ちょびっとだけ含まれているのかもしれません。

 

『知への賛歌―修道女フアナの手紙』:彼女の意志

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著者は、ソル・フアナ=イネス・デ・ラ・クルス[1651−1695]。
300年以上前のメキシコ女性です。
ソル・フアナ=イネス・デ・ラ・クルスとは、
「十字架の修道女、フアナ・イネス」を意味する宗教名。

詩人であり、スペイン・ハプスブルク帝国の末期、植民地に生まれた、
同時代のスペイン文学最大の作家。
現在、その肖像はメキシコの200ペソ紙幣で使われている。
(「アメリカ大陸初のフェミニスト」と言われているそう。)

17世紀末、本を読みたいがために、学問をしたいがために、作家になりたいがために、
戦略的に修道女になったという彼女が残したのは、詩と手紙。

社会の規範や道徳に抗議し、恋愛の機微や女性の生き方・権利、学問への希求、
彼女の思想などを文学に持ち込み、恐れなく明快に表現した。

168番に、「でも私が、まだましとして選ぶのは、好きでない人の、猛々しい女王となること、
私を好きでない人の、哀れな戦利品となるよりも。」
とあります。

美貌の人だったらしく、
いわゆる「トロフィーワイフ」のような立場への誘いもあったのかもしれません。

しかし、17歳で自ら修道女となり、43歳で亡くなるまで、
修道院から一歩も出ない生活を送るのですから、その「意志」たるや。

17世紀末のメキシコの抑圧的な社会というのが、
わたしの想像の手が届くものではないのは承知の上で…。

まだ映画にはなっていないようですが、
彼女の生涯を描いたドラマ(7回シリーズ)がありました。
『修道女フアナ・イネス』 | Netflix (ネットフリックス)オリジナル作品

観ますね。

 

『経験と教育』:門を通って、遥かな世界へ

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読みながら、「面倒くさい訳だなぁ、これはきっと原語がドイツ語に違いない」、
なんて思っていたのですが、アメリカ人だった…。あはは。

著者は、ジョン・デューイ

印象に残ったのは2カ所。

(p47)
……すべての経験は緑門(アーチ)、その門を通して、
未踏の世界が仄かに見え、その境界は、遠く彼方に消えゆく、
永遠に、永遠に、私が進みゆくにつれて。

アルフレッド・テニスンの詩「ユリシーズ」より

(引用元にあたるのは「対訳テニスン詩集―イギリス詩人選〈5〉(岩波文庫)」かな。)

(p121)
教育者は他のどのような職業人よりも、
遠い将来を見定めることに関わっているのである。

(中略:医者や弁護士の仕事を例に出しています。)
教育者は、自分の仕事の性質そのものから、自分のしている現在の仕事を、
その目的に関連づけられている将来のために、何が成し遂げられるのか、
あるいは失敗するのは何かといった見地から見定めなければならないのである。

知る、識る、わかる、学ぶ、そして教育する、ということの途方もなさと、
勇気をもって、その道を進むこと、でしょうか。

 

『博物誌(ルナール)』:小さくも壮大な世界を見る目


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著者は「にんじん」を書いたジュール・ルナールです。

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(「にんじん」と「博物誌」は青空文庫にも公開されていますね。)

以下、「博物誌」から引用します。

「蜘蛛」
髪の毛をつかんで硬直している、真っ黒な毛むくじゃらの小さい手。
一晩じゅう、月の名によって、彼女は封印を貼りつけている。

「蝶」
二つ折りの恋文が花の番地をさがしている。

「蟻」
一匹一匹が、3という数字に似ている。
それも、いること、いること!
どれくらいかというと、333333333333……ああ、きりがない。

「鳥のいない鳥籠」
僕のお蔭で、そのうちの少なくとも一羽だけは自由の身でいられるんだ。
つまり、そういうことになるんだ。

俳句にも似た観察。
圧縮され、そして開放された表現。
これが、彼の目が見た世界の一部、なのですね。

わたしはフランス語を日本語に訳したものに魅かれるのですが、
この本も間違いなく、その一冊です。

 

『ラ・ロシュフコー箴言集』から「行動経済学」へ

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「われわれの美徳は、ほとんどの場合、偽装した悪徳に過ぎない」。
よく知られたこの一句が示すように、フランソワ・ド・ラ・ロシュフコー(1613‐1680)の箴言は、愛・友情・勇気など美名の下にひそむ打算・自己愛という業を重い律動感のある1,2行の断言であばき、読者を挑発する。人間の真実を追求するフランス・モラリスト文学の最高峰。

とのこと。

【箴言(しんげん)】
(1)いましめとなる短い句。教訓の意味をもった短い言葉。格言。
(2)〔The Proverbs〕旧約聖書の中の一書。
   伝承されていた格言・教訓などの集成。道徳上の格言や実践的教訓を主な内容とし、
   英知による格言・金言・勧告が集められたもの。知恵文学に属する。

***

この本には、とても多くの言葉がまとめられているのですが、
「!」と思うものもあれば、「?」と思うものもあり。

25番には「幸運に耐えるには不運に耐える以上に大きな幾つもの美徳が必要である」とありました。

これは、例えば「高額宝くじ大当たりの事態」とか?

マイケル・ノートン氏の『幸せを買う方法』というTEDを思い出しました。

 

「宝くじに当選すると素晴らしい人生を送れると思われています。

 実際どうなったかというと、当選者は全財産を使い果たして借金を作ってしまい、
 友人や会う人会う人がお金をねだってくるようになりました。

 それにより彼らの人間関係はめちゃめちゃになり、
 結果、宝くじに当たる前よりも借金の額は増え、友情は悪化してしまったのです。

 実際にそれを確認する実験を行いました。

 何人かの人にいつも通り自分のためにお金を使ってもらい、
 他の何人かの人には、自分以外のためにお金を使ってもらいました。

 そして、実際に幸せになるかどうかを測定してみました。」

さて、その結果は?

ロシュフコーの時代の「箴言」も役に立たないわけではありませんが、
現代の「行動経済学」のほうが、より具体的で実践的な智恵となっていますね。

この宝くじの件で言えば、「幸運」と「行動」と「幸福感」の関係です。
 

『MOVE YOUR BUS(ムーブ ユア バス)』:バスを加速させる人、させない人

組織をバスに例え、そのバスを動かすスタッフを<能力順>
「ドライバー:組織のリーダー」
「ランナー:期待以上のことをやってのける、チーム最強のメンバー」
「ジョガー:できる範囲で仕事をする、でも長続きしない人」
「ウォーカー:引っ張られないと動かない悲観主義者」
「ライダー:乗っているだけのお荷物」

と名付けています。

そして、そのバスをスムーズに目的地へ向かわせるには、
「ドライバー(組織の長)は、どのスタッフにどう接するべきか?」
「それぞれのスタッフは、どういう役割を果たすべきか?」

を示しています。

ドライバーの仕事は、
あくまでもランナーが最大限の力を発揮できるようにサポートすることであり、
ライダー(お荷物)をウオーカー(歩く人)にしようとすることではない。
ランナーをいかに自由に走らせるかで組織の成果は変わるからだ。

これは、真ん中あたりに照準を合わせる日本の教育とはかけ離れているかもしれません。

もう「組織には、ランナー、最低でもジョガーまでしか要らない!」と言いたくなりますが、
そのジョガーでさえ、自分のことをランナーだと勘違いするらしく…。
(ジョガー=周りにどういう人がいるかによって、仕事に影響が出やすく、
ケアが必要な人たち、だそう。)

ならば、ますます採用が大切!ということになりますね。

本には「バスを加速させる17のルール」も載っています。
1. 早めに行く
2. 身なりを整える
3. あいさつをする
4. ランナーの隣に座る
5. 助けを求める
6. 批判を受け入れる
7. やれることをやる
8. 相手の意図をくむ
9. 話す以上に聞く
10. よそ見をしない
11. 後ろ向きの話をしない
12. ランナーを盛り立てる
13. ぐずぐずしない
14. 解決策を見つける
15. 身のほどを知る
16. 信頼を築く
17. 細部に気を配る

当たり前のことのように思えますが、これがなかなか、なのでしょう…。

頭に流れたのはこれです。

どうしましょう…。

『世界でひとつだけの幸せ―ポジティブ心理学が教えてくれる満ち足りた人生』とペンシルベニア大学のアセスメント他

マーティン・セリグマン教授が提唱するポジティブ心理学の研究に基づいた、
「本当の幸せ」を手に入れるためのあれこれ。

「本当の幸せ」は人によって違う部分もあります。
ゆえに、自分なりの「幸せ」を定義しておくことも大切ですね。
(わたしの姪は、幼稚園の頃「しあわせ=みんな大好き!っていうこと」と言いました。)

この本では「幸福の公式」が挙げられています。

幸福の公式:H=S+C+V
H:永続する幸福のレベル
S:その人にあらかじめ設定されている幸せの範囲
C:生活環境
V:自発的にコントロールする要因

彼は、ペンシルベニア大学のポジティブ心理学センターの長でもあります。
こちらに、多くのアセスメントが用意されています。

https://www.authentichappiness.sas.upenn.edu/ja/testcenter
(日本語でもOKなので、ぜひ活用してください。)

***

もう一つ、記事を添えておきます。
科学が証明したすぐ幸せになれる16の方法

上記の「幸福の公式」における「自発的にコントロールする要因」と言えるでしょう。

◆すぐ幸せになれる、ちょっとしたこと5つ
1. ほほえむ
2. 背筋を伸ばして大股で歩く
3. 声をあげて笑う
4. お茶の時間など、小さな瞬間を楽しむ
5. ほかの人に親切にする

◆毎日の習慣になると幸福になる6つのこと
1. 祈る
2. 動物と遊ぶ
3. 感謝の日記をつける
4. 楽しい音楽を聴きながら協力しあう
5. 睡眠を十分にとる
6. 公園に散歩に出かける

◆少しがんばると幸せにつながる5つのこと
1. 運動する
2. 瞑想する
3. セックスする
4. ボランティア活動に参加する
5. 旅行に行く

この16の方法にオリジナルを加えることもできますね。

つまり「幸福感」は、意外と自分でどうにかできるものなのです。
前向きにいきましょう。

Enjoy your life!

 

『中原淳一』に見る装いの尊さ

 

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オードリー・ヘップバーンが着ていた頃の、ジバンシィの風情。

自分のためのお洒落も、
結果的には自分のためだけではなくなる(場合がある)のだと改めて思います。

復刻商品は、アームホールなどがややきつそうなのですが、
当時のお誂えだと、やはりこれくらいの「ぴったり感」なのでしょうね。

http://www.junichi-nakahara.com/

適度に緊張感があり、自然と姿勢もよくなりそうな装いです。

女性だから女性らしい装いを、ということではなく、
こういうのを着たい!と思う人が、性別や年齢に関係なく、
自分の着たいものを着る、というのがいいなぁと思います。
「どう着るのか」については、美意識次第だろうとは思いますが。

そういう意味で、中原淳一が描いた「装いの尊さ」は永遠かもしれません。

***

こちらはニューヨークのパワフルなマダムたち。力強いです。

 

https://www.instagram.com/advancedstyle/

わたしもクローゼットを見直しましょうかねぇ…。

 

『対訳・五輪書』:気持ちがキュッとする普遍的な真理

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宮本武蔵の書いた日本語と現代語訳、英語訳がセットになっています。

THE BOOK OF FIVE RINGS

地之巻 THE EARTH CHAPTER
水之巻 THE WATER CHAPTER
火之巻 THE FIRE CHAPTER
風之巻 THE WIND CHAPTER
空之巻 THE ENPTINESS CHAPTER

以下、地之巻から。

わが兵法(my martial art)を学ぼうと思う人には、道を行う原則がある。

第一に、邪(よこしま)なことを思わないこと。
第二に、兵法を鍛錬すること。
第三に、広くもろもろの芸に触れること。
第四に、広く多くの職の道を知ること。
第五に、物事の利害損失をわきまえること。
第六に、あらゆることに鑑識力を養うこと。
第七に、目に見えないところを悟って知ること。
第八に、小さなことにも気を配ること。
第九に、役に立たないことはしないこと。

1. Think without any dishonesty.
2. Forge youeself in the Way.
3. Touch upon all of the arts.
4. Know the Ways od all accupations.
5. Know the advantages and disadvantages of everything.
6. Develop a discerning eye in all matters.
7. Understand what cannot be seen by the eue.
8. Pay attention to even small things.
9. Do not involve yourself with the impractical.

普遍的な真理ですね。
気持ちがキュッとします。

 

『ぼくの小鳥ちゃん』:けしからんことの素晴らしさ

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初めて読んだとき、「小鳥ちゃん」は、ほとんどわたしではないかと思いました。
いや、きっと読者の多くがそう感じるように書かれているのでしょう。

とにかく、「けしからん」のです。

けしからん(怪しからん)とは?
道理にはずれていて、はなはだよくない。不届きであること。

最近では、いい意味でも使いますね。
「規格外のよさ」、素敵です。

 

『いきな言葉 野暮な言葉』:「おちゃっぴい」とか「おきゃん」とか

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中村喜春さんの著書。
1956年(昭和31年)アメリカに渡り、晩年はニューヨークで過ごす。
2004年、ニューヨークの自宅にて逝去。

何度も読んでは「おちゃっぴい」のところで手が止まります。
「お茶挽き」から派生して「おしゃべりで活発な女の子」を指すようになったとか。

おきゃん」と言葉の印象は似ていますが、
こちらは、「勇み肌で粋なことや人」という意味だったそう。

かつては「おきゃんぴー」という女性お笑いコンビもいたみたいです。
(コンビ名としては、可愛くて素敵です。)

自分のキャラクターを端的に表す用語は持っていた方がいいように思います。
周りの人に聞いてみるのもいい方法ですね。

 

『デジデリオ・ラビリンス』&『前世への冒険 ルネサンスの天才彫刻家を追って』:あの頃のフィレンツェが目の前に立ち上がるから、それは…

 
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元々は1995年に『デジデリオ・ラビリンス―1464・フィレンツェの遺言』のタイトルで
出版されたものが、2000年に『デジデリオ 前世への冒険』に。

さらに2006年に加筆修正のうえ文庫本になったのが、
前世への冒険 ルネサンスの天才彫刻家を追って(知恵の森文庫)」です。

「デジデリオという、ルネサンス期にフィレンツェで活躍した美貌の彫刻家が、
500年前のあなたです。」

そう占いの人に言われたことがきっかけで、イタリアまで行くことになってしまった著者。
まるで、デジデリオが呼び寄せてでもいるかのごとく、相次ぐ偶然の発見に、
驚愕と深い懐疑を抱きながら、時空を超えて自分を検証する、
スリリングで不可思議な冒険旅行記です。

「あなた、前世では才能があったし、きれいだったし、
男からも女からもちやほやされて愛されたんやけど、
欲情にまみれて享楽的な人生を送ったから、今世でがっくり格が落ちたんや」

とか言われて…。

著者がイタリアへ持って行く紹介状の件では…
これでいいのだ。組織が発行した証明書や看板の力に頼って生きるより、
自分で肩書きを決め、自分で箔をつけて生きる方が、むしろ爽快だ。
これからも、ずっとこうやって生きて行こう、と思った。

と。

フィレンツェでの調査の中、ある老神父が、
「日本?お前たちは日本人か。もう北方領土はロシアから全部返してもらったか?」
と言うのも笑えた。

エンディングでは…
旅が終わった時、一つの宝物を手にしていた。
それは、「人間はどこから来て、やがてどこへ帰るのかわからない。
けれど、どこから来て、どこへ帰るにしても、
人生は心からしたいと望むことをするためにある」という確信である。

との言葉。沁みます。

***

これは、女優・杏さんの主演で2011年に放映されたドラマ、
「フィレンツェ・ラビリンス~15世紀の私を探して」の原作本でもあります。

こちらに動画があります。
実際に旅の中で確認された彫刻や建物が映っていますね。
ドラマでは、「するのは失敗。しないのは大失敗」というイタリアのことわざも出てきます。

***

著者の森下典子さんは、多くの素敵な本を書いていて、その一つがこちらです。

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『日日是好日―「お茶」が教えてくれた15のしあわせ』:ゴールのない恐ろしくも幸福な道
もぜひご覧ください。

 

『日日是好日―「お茶」が教えてくれた15のしあわせ』:ゴールのない恐ろしくも幸福な道

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何度も泣きながら読みました。
著者が「お茶」に出会って知った、発見と感動の体験記です。

したいことが見つからないまま焦り続けるより、
何か一つ、具体的なことを始めた方がいいのかもしれない。
そう思って、お茶を始めた著者。それから二十年余り。

五感で季節を味わう喜び、いま自分が生きている満足感、人生の時間の奥深さ…。
「生きてる」って、こういうことだったのか!という驚きが、そこにあります。

以下、引用します。

世の中には、「すぐわかるもの」と「すぐにはわからないもの」の
二種類がある。
すぐわかるものは、一度通り過ぎればそれでいい。
けれど、すぐにわからないものは、何度か行ったり来たりするうちに、
後になって少しずつじわじわとわかりだし、「別もの」に変わっていく。
そして、わかるたびに自分自身が見ていたのは、
全体のほんの断片にすぎなかったことに気づく。
「お茶」ってそういうものなのだ。

そもそも、私たちは今まで何と競っていたのだろう?
学校もお茶も、目指しているのは人の成長だ。
けれど、一つ、大きくちがう。
それは、学校はいつも「他人」と比べ、
お茶は「きのうまでの自分」と比べることだった。

お茶は教えてくれる。
「長い目で、今を生きろ」と。

タイトルは、「日々すべからく好い日である」ように、の意。

「お稽古」を通して(結果的に)鍛えられる「在りよう」でしょうか。
それは、明らかにゴールのない「道」ですね。

…はい。

***

映画にもなりました。こちらもおすすめです。

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同じ著者の本についての記事、
『デジデリオ・ラビリンス』&『前世への冒険 ルネサンスの天才彫刻家を追って』
:あの頃のフィレンツェが目の前に立ち上がるから、それは…

もぜひご覧ください。

 

『南方マンダラ』:深淵をのぞく時

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超人・南方熊楠(1867:慶応3年 – 1941:昭和16年)。

彼がどこに、そしてどこまで手を伸ばそうとしていたのか、わたしにはわかりません。

ただ、いくつかの手がかりは、この本にあります。
表紙の右上に描かれているくしゃくしゃの何かが、いわゆる「南方曼陀羅」です。

宇宙の不思議を明かそうとしていたのだろうとは思います。
アインシュタイン(1879年 – 1955年)あたりとチームを組むことができれば、
もう少しわかりやすいものになったかもしれませんね。
(年も近いですし。)

わからないものに対する態度、これを学ぶということが学問の髄なのだと思います。
そういう意味で、この本はわたしの「お気に入り」です。

 

『シカの白ちゃん』:特別であること

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奈良公園で生まれた突然変異の鹿。

額に白い冠を載せて生まれたこの鹿は、人間に愛され、特別扱いされ、
でも、他の鹿からは遠巻きにされます。
そして、ようやく授かった我が子を失い、一生を終えました。

自分で選んだわけではない、その希少で貴重なルックスは、
この鹿に何をもたらしたのでしょうか…。

あまりに擬人化して考えるのは不健全だと思いつつも、
どうしても、あれこれ想像してしまいます。

特別であることの悲哀、でしょうか。
それとも。